巨 匠



 「カルメン」と言う彫刻が鬼怒川温泉の橋にある。
作者は堀口泰造。

他にもあるらしいが知らない。
彼は(・・と言っても、大学を退官してから随分になるので、もうおじいちゃんである)
伴奏をしてくれるピアニストが学生の時からの知り合いで、演奏会に来てくれるのだ。
そのピア二ストは、堀口氏を親しみを込めて「巨匠」と、呼んでいるので、いつしか周りの者もそう呼ぶ。
以来、演奏会で会うたびに、ニコニコしながら「今日の演奏はとっても良かった」等と、言ってくれる。
本当に優しいおじいちゃんである。

 巨匠は、大宮から一時間程行った山中に一人で住んでいる。

そこは、星の綺麗な畑の中にぽつんと建っていて、庭の作品達は、玄関にある電球の光を受け、それぞれが静かに何かを訴えてくる。
山小屋風のアトリエに入ると、壁には研ぎ澄まされた目を感じる若い頃の巨匠の自画像があり、大きな机の上には巨匠の旺盛な好奇心を示す色々な物が所狭しと並び、部屋の隅には倉庫のように作品がゴロゴロ転がっていて、目が忙しくなってしまう。

 2メ一トルを越す女性裸像が、二つ中央に立っている。
裸像の一つは腕の部分に粘土が付いてなく中の木が出ており、それは完成していないにも係わらず十分に美しい。

思わず触ってみたい衝動にかられながらも思い止まる。

「触ってもいいよ。少しぐらいへこんでもかまわない」

信じられない言葉である。

 美術館などに行くと、ムッとした表情のお姉さんが膝の上に冷房よけの布を置き、怪しいヤツではないかと睨まれる。少しでも作品に近ずき過ぎると「お客さん」等と注意される。私は、どの様な技法で有るかを確認しょうと思っているだけなのに、人を見かけで判断するのはゆるせん。それより、二、三人で勝手な批評をしながら歩くおばさん達を何とかしてほしい。とにかく、あのお姉ちゃん達に聞かせたい言葉だ。

 こんな事は滅多にないチャンスなので、当然、記念の指紋を付けさせてもらう。これでこの作品と共に私の指紋が後世に残るのである。ひょっしたら研究家がこの指紋を見つけ、何か勝手なことを言いだしたら、これは最高に傑作なことだ。

 しかし、巨匠の作品に指紋を記念に付けたり、少しぐらいへこませたりしても、作品の持つ大きな力には何の影響も無いのであろう。それに、巨匠はその日の制作が終わっても、作品の見える位置にあるベッドから毎晩見ているのだ。
いつもの優しい目が、作品の発する声や主張、感情、動きを、聞いているに違いない。
 どうりで・目で聞いたり、耳で見たり出来ない三流音楽家では、重箱の隅を突っつく様な練習を重ね、全体が歪んで来る訳だ。

 ロッキングチェアーの脇には、全色に輝くテナ−サックスが立ててある。それは単なる飾りものではない。巨匠は75才とは思えない彫刻で鍛えた太い腕と、たくましい指で吹く。すると、髪の毛のない九顔が赤くなり、一瞬の空白、(これが何とも言えない)そしてプッ、ブォーと音がする。何しろ上手な訳がない。大学の元先生と言っても美術の方である。しかし、その演奏を聞いていると、決して綺麗と言えない音の中に、妙に説得力のある音楽を感じる。

鳩を抱く少女 何故?
 それは、巨匠が創作活動の中で培った作品の本質を見る目なのか、それとも、芸術に対する巨匠自身の生きざまの表出であるのか。

 今日も部屋にゴロゴロと転がっている目分の作品達の前で、顔を真っ赤にしてプッ、プォ一一と吹いているのだろう。

 もし、観客達の中で巨匠の演奏に説得力が有りすぎて我慢出来ないと言う者がいたら、しょうがない、我が家への亡命を認め、大切に引き取ってあげよう。

(第一亡命者「鳩を抱く少女」ブロンズ)


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